この記事はビジネス情報誌『海外投融資』2023年5月号に掲載されています
「中国と台湾はいつどのような形で戦争をするのでしょうか?」このような質問を日本の経営者に限らず、欧米の多国籍企業の幹部から質問を受けることが増えている。企業が活動するマーケットで戦争や暴動が起きると、社員の退避、サプライチェーンの遮断、事業や金融資産の凍結、売上と株価の低下などの深刻な課題に直面することになる。複雑化し目まぐるしく変化する地政学リスクに対して理解を深め、来るべき有事に対して、しっかりとした計画と対策を講じることは経営者にとって重要である。
2022年2月に始まったウクライナ戦争は1年が過ぎても終息する兆しがみられず、この戦争がアメリカを含むNATO加盟国を巻き込むリスクに加えて、中国による台湾統一に向けた実力行使のリスクが高まっているといわれている。中国をめぐる安全保障環境は、多くの変数が存在しており、とりわけカギを握る米国の対応が必ずしも明確ではないことが、地域の地政学的な不安につながっている。こうした安全保障上の懸念に加えて、アメリカと中国との間ではすでに「経済」、「技術」、「情報」、「サイバー空間」で単なる緊張を超えた状態に入っている。中国ビジネスが一定量あるグローバル企業は、台湾有事を「IF(もし)」ではなく「WHEN(いつ)」起こる危機として、事業継続と危機管理の両面から計画を見直す必要がある。
混迷し、緊張が高まる地政学リスクの中で、日本企業は「板挟み」に今後さらに苦しむことになる。日本企業にとって中国は重要なマーケットでありであり、単純に反ロシア、反中国の枠組みに身を委ねる選択肢は賢明とはいえない。ウクライナ戦争を受けてロシアに対して数々の経済制裁が発動され、世界の経済に影響が生じている。これらの動きと並行して、アメリカと中国は対抗するかのように、日本企業にも影響を与える経済安全保障に関連する規制やルールが次々と整備されている。加えて、日本国内でも2022年5月に成立した「経済安全保障推進法」により、中国でビジネスをする日本企業にとって難しい課題に直面することになった。
地政学リスクがより複雑で深刻化しているなかで企業は何をすべきか。危機管理マニュアルの整備や、サプライチェーンの見直しなどを考える企業は多いと思うが、より大切なことは、「リスクシナリオ(今後どのような事態が展開しそうか)の策定」と「イベントに対するインパクト(事業、資産、事業戦略への影響度)の評価」を行うことである。
シナリオ分析を行う際、いつどのような形で武力衝突が始まるかというタクティカルな点に目を向けがちだが、地政学リスクは、経済制裁による物の移動の制限から、自国通貨や特定の決済システムの強要など幅広いリスクを評価し、安全保障上のイベントに加えて、政治、経済、社会、外交などの各カテゴリーに分けて分析していく必要がある。また、当該国の大きなトレンドと、リスク環境に影響を与えるイベントを整理するためのマクロ的な視点と、自社や業界固有のリスクは何かというミクロ的な視点で考察し、重要なリスクイベントが与えうるインパクトをベースに整理することも重要だ。
これらの作業に当たる際、バランスのとれた情報源を確保することが前提になる。国内外のニュースメディア情報のほか、分析対象の各市場での有識者、安全保障問題専門家、ジャーナリストなどが考えられる。たとえば、台湾有事を想定した分析を行う場合、軍事衝突になった場合に関係してくる中国、台湾、アメリカ、日本からの情報を集めることはもとより、中国と経済交流または緊張関係にあるシンガポール、インド、欧州などの国々の公開情報と非公然情報を集めて評価することも必要になろう。
中国では習近平政権の3期目が始まり、共産党大会では①中国式現代化、②安全、③科学技術教育立国の3点が強調された。当面、中国共産党はこの3点を土台として政策を展開していくことが想定される。社会不安の惹起を回避し(①中国式現代化)、対外的には米国をはじめ旧西側諸国による「包囲網」に対抗するなかで国防の強化が意識されている(②安全)。こうした環境のなかでも、経済成長を維持するには、技術革新による生産性の向上が重要となる(③科学技術教育立国)。
科学技術立国を標榜するなか、日系企業が警戒すべきは中国企業の競争力向上はもちろんであるが、違法・不法行為も含む技術流出や漏洩にも注意を払いたい。中国当局や企業による技術窃盗は、すでに多くの事例が存在している。今後は中国によるサイバー空間での攻撃能力向上もあいまって、これらのリスクは高まるだろう。
日本国内の動向も今後の中国ビジネスに影響する恐れがある。近年、政府与党は経済安全保障政策や防衛力強化に注力し、タカ派的な政治家が目立っており、中国側は強く反発している。日中双方においてナショナリズムを背景とした緊張がみえるなか、中国ビジネスにおけるレピュテーションリスクへの備えも必要となる。
一般市民を中心とした社会動向の視点からは、「国潮」や反日デモといったナショナリズムに関連するリスク要素が存在する。「国潮」は現時点では、若者による中国ブランド優先の動きがファッションや飲食といった分野で中心にみられているが、今後は中国企業による商品・サービスの質の向上を背景により広い分野に及び、外資企業製品が選好されにくくなるリスクは念頭に入れるべきだろう。日本に対しては領土問題や歴史問題、安保政策などの何らかの理由で反日デモが生じて「国潮」と結びつき、日本製品やサービスのボイコットや事務所、従業員に対する物理的な脅威の恐れもある。このように、中国の社会情勢は政治経済や安全保障の「合わせ鏡」という側面を持っていることを意識したい。
(筆者略歴)
リージョナル・マネジング・ディレクターでアジア太平洋地区統括責任者である。
危機管理をはじめ、贈収賄不正、産業スパイ、企業犯罪や社内不正に関連したコンサルティング業務から、企業や市場の戦略的情報(ビジネス・インテリジェンス)の提供など、企業や政府機関の包括的なリスクマネジメントを手がけている。
クロール前は三菱重工業株式会社に勤務。これに先立っては、日本経済新聞社の記者として従事。また、経済産業省分科委員会のメンバーとして日本の知的財産権保護の政策立案に関わった。
過去数年間にわたり、アジア太平洋地域の統括責任者として、アジア各国の大規模プロジェクトに参画してきており、アジア地域のビジネスリスクには特に深い知見を有する。さらに、日本国内のみならず、東南アジア・南アジア・中国等アジア各国に幅広いクライアントネットワークを有している
(企業概要)
クロールは米国本社のリスクコンサルティング会社として、国内外の「ガバナンス」や「リスク」に関する調査と助言を提供している。市場リスク分析、投資・提携先に対するデューデリジェンスから、地政学リスクやESG関連の調査、コンプライアンス事案への対応、サイバーセキュリティ対策といった各種調査から、企業価値評価(バリュエーション)、コーポレート・ファイナンス、リストラクチャリングなどの事業を、世界30カ国や地域に展開しており、約6000名の専門家を有している。